【終活日誌 2015年1月号】

~吉田健一 住職編~お坊さんから聞いたちょっといい話

新年を迎え、私たちがもう一度考えたいことを浄土宗、浄信寺の吉田住職がお話しくださいました。
それではご紹介いたします。
今、あなたの手の上に「おにぎり」がひとつあると想像してください。
当たり前のことですが、おにぎりは握ってくれる人がいるから「おにぎり」なのです。
いえ、それ以前にご飯を炊かなければおにぎりは握れません。
いえ、お米を買ってこなければご飯は炊けません。
いえ、お米を精米したり、農家の方が田植えをし、秋に刈り入れるまで暑い夏の間も丹精込めてお米を育てたり…。あなたがおにぎりを食べたいと願い、それを手にするまでにどれだけ多くのストーリーが存在するでしょうか。突然に手の上に上がることなどありえないのです。

「勿体ない」という言葉は、ただ「モノを大切にしなさい」というだけではなく、心の目を開き見えないストーリーに思いを向けた時に、そのモノを粗末に思えなくなる感情を言うのかもしれません。

遠足の日の朝、興奮してまだ夜が明けきれぬ前に目が覚めてしまったあなたは、台所でお母さんが一生懸命におにぎりを握る姿を見たとしましょう。 さて、あなたはこのおにぎりを「たかがおにぎり」と粗末にできるでしょうか。 コンビニに行けば、おにぎりは「たかが100円」で買えます。しかし、「たかが」という価値は、相対的な価値観でしかありません。そこで思考を停止して しまうことは「勿体ない」ことです。「たかが100円、されど…」、このあとに続く思いや想像力こそを私たちはもっと養うべきなのです。

私たちが子どもや孫の未来が幸せであれと願うように、私たちの先祖もそのように願ったはずです。私たちはその願いやお陰を忘れ、豊かで平和な生活を当たり 前に過ごしています。これは、おにぎりを握ってくれた人の思いや、農家の方の労力も想像できずに、「たかが100円」と言い切ってしまうのと似ています。

いまはとても生きづらい世の中です。偏狭な価値観で他者の存在を小さく貶めて、勝者と敗者、強者と弱者に分けようとします。しかし、相対的で小さな価値観 の中に生きる人間は、自らもその価値観の中に巻き込まれ苦しみます。たとえ、誰にも勝るものはなくとも、たとえ全ての人が敵に回ってしまったような孤独に 陥ってしまった時にでも、「私はお前を大切に思っているぞ。お前がお前であることが何よりも大切なことである」と、ありのままを抱きしめて下さるのが、仏 様であり、仏様の世界にいらっしゃるご先祖様たちなのです。
きっとあなただって「ご先祖様」になった時には、愛する子や孫がつまずき、迷っている時にはそのような眼差しを向けるはずです。日々のお参りやご供養を子 や孫に伝えることで、そのような心の目を育むことになります。そのことは、やがて彼らの人生の山道では杖となり、先の見えない暗闇を照らす灯火となるので しょう。

心の目を開いた時に、「たかがおにぎり」や「つまらない人間」、「意味の無い私の人生」などないのです。あなたにも私にも誕生のストーリーがあり、「掛け替えのない」人生のストーリーがあるのです。
「たかがおにぎり」「つまらない人間」、それを口にした時、人の心は貧しくなり、世界は小さく見えるでしょう。それは実に「勿体ない」ことですね。

浄土宗 浄信寺 住職 吉田健一

浄信寺[http://www.jyoushinji.net/
住所:神奈川県平塚市長持337
TEL/FAX:0463‐32‐5796   eメール:enisi2010@live.jp

プロフィール
浄土宗 浄信寺 住職
1969年生まれ
寺ネットサンガ事務局
自殺対策に取り組む僧侶の会会員
平塚地区保護司

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