【終活日誌 2014年10月号】

~太田 宏人 編~お坊さんから聞いたちょっといい話

いのちおわるときに

 その日、仕事で遅くなった私が築地がんセンター(国立がん研究センター中央病院)に到着したのは、深夜12時近くでした。うだるような暑さの熱帯夜でした。
 新橋駅からとぼとぼと歩きました。あの頃の記憶はあいまいなのですが、その中で鮮明に覚えていることがいくつかあります。まず、病院へ向かう途中の築地市場から漂っていた、魚市場に独特の臭気です。

 その築地市場と朝日新聞が向き合う交差点を築地本願寺のほうへ渡れば、がんセンターです。
 めざす病室はB病棟の15階。交差点から見上げると、母の病室から蛍光灯の光がもれていました。
 がんセンターの真っ暗なビルの中で、その灯りだけが妙に温かく感じられ、「我が家」に帰ってきたような錯覚を受けました。18歳で家を出た私にとって、やはり「帰るべき場所」は母のもとなのかも知れないなあ、とそんなことを思うと、涙があふれてきました。
 時間外受付を済ませ、人気のない病院へ入館。母の病室に向かいました。外から見えた蛍光灯の灯りに照らされた母の寝顔には死相が現われ、時折、苦しそうな表情を浮かべていました。私を認めると、母は、
「こんな時間にすまないねえ」
と弱く笑いました。
 修行が足りない私はあいまいに返事をし、視線を窓の外に逃がしました。死を実感した本人の心の痛みを思いやる余裕がない自分に怒りがこみ上げます。母は、目を見開き、天井をじっと見つめていました。意志を感じる目でした。
 私は涙を見せまいと、しばらく、外を眺めていました。
 周辺のビルやお台場、レインボーブリッジの夜景は節電の影響もあってか、何か、淋しげでした。
 それからしばらくして、私の「帰るべき場所」は、この地上からなくなりました。母も「帰らせてあげること」ができなくなりました。母の背負った痛みの深さは、私などには分かりません。いつか、私が死ぬときに理解できるのでしょう。
母との死別から1ヶ月が過ぎましたが、今でも、魚市場の臭気とあの窓の灯り、淋しげな夜景、弱々しいというか素に戻ったような母の笑顔は、脳髄に刻まれています。

衝撃をともなう「死」を起点に「生」を想う

 この原稿を書いているちょうど1ヶ月前の8月17日、母が逝きました。
悪性リンパ腫の再発で、71歳でした。
その看取りを通して感じたのは、「いのちはただ在るだけで尊いし、亡くなっても尊い」ということです。

よく、死生学や終末関係の記事などに「死を想え(メメント・モリ)」だとか、「死を学習しよう」などと書かれています。私も「メメント・モリ」が、生を際 立たせるためには必要不可欠なことと思います。しかし、現実の人の死に様から離れたところで語られる「死」は観念に過ぎません。記号にさえ思えます。
実際の「死」は衝撃をともないます。
衝撃をともなうリアルな「死」は本人だけではなく、家族や縁ある人々も程度の差こそあれ、ともに体験するものです。

エ ンディング・ノートも葬儀の生前予約も、新しい葬法(海上散骨、地上散骨、樹木葬etc)も最近よく聞くグリーフサポートも、いずれも「死」を起点とした 営為です。しかし、それを求める人々(利用者、受益者、クライエント)は自分自身や家族・縁者を襲う死の衝撃を前提として考えているのでしょうか。もし も、あの衝撃を抜きに「死」を扱っているとしたら、「死を想う」ことにはならないような気がします。

悪趣味な死体写真をいくら眺めても、身を削られるような衝撃はありません(写真のインパクトはあります)。亡くなられた方々や遺族たちの人生の物語が欠落していては、それは「死の表層」でしかなく、写真の主に対しても失礼でしょう。
また、いわゆる「供養産業」の従事者、終末期に関わる医療者、そして宗教者も、この死の衝撃を「自分が受けたら」と想像してみる必要があります。でなければ、その行為は単なる金儲けであり、ケアを標榜することは許されません。
私は起死回生という言葉が好きです。どん底の「死」を起点に生へとベクトルを回わし向けるという四字熟語に惹かれてしまうのです。死を起点に生へ意識を向 ける、という発想は人類が見つけ出した人生の真理のひとつではないかと思います。仏門で説かれる「生死一如」に響きあう考え方ではないでしょうか。
メメント・モリというのはラテン語で、古代ローマでよく使われたそうですが、東洋にも同じような発想があったわけです。
それはともかく、終末期や供養産業に関わる人は、「起死回生」ではなく、「起死想生」であってほしいものですね。

死にゆく痛みを緩和できるオピオイドはない

 蛇足ながら、母の経過を説明したいと思います。
 昨年(平成23年)の暮れから腹部に疼痛を感じるようになり、がんセンターでの検査の結果、小腸に小さな腫瘍を発見しましたが、経過観察となり、途中で診療科が変わりました(後から思えばこれらの時間的なロスが命取りになりました)。
 母は中学校の英語教師を勤め上げたあとは、アマチュア劇団に参加したり、映画にも出ていました。痛みをこらえて役者を続けていたのも悪かったのですが、6月12日にがんセンターへ検査のために訪れると、「生命に関わる状態」と診断されて即日入院となりました。
「いつ死んでもおかしくはない」といわれ続けていましたが、まだ回復の可能性も残されていました。本人もそのつもりでしたし、私のきょうだい(兄、妹)も、どこか楽観していました。
 ところが、7月30日の午後に見舞いに行くと、「腹膜炎が悪化して腹水が溜まっている。緊急に水を抜きます」と説明があり、急遽、手術室へ向かうことになりました。
 たまたま私は居合わせましたが、元気な母を見たのはこれが最期でした。
 その日の夕方には「今夜が峠なので、声を掛ける人には…」と医師から告げられ、その日からきょうだいの誰かが母の病室に泊まることになりました。結果的に、仕事に融通が利きやすい私が一番多く泊まり、日中はほとんど付き添っていました。
 平成19年に父が死んだときは、入院生活の最後が集中治療室だったために充分な看取りができなませんでした。そこで、母の看取りはしっかりやりたかった、という事情もあります。
 母は、何度か死線をさまよいましたが、驚異的な回復を見せました。医師は「家族の付き添いが心の支えになっている」と驚いていました
 その後も母は腹膜炎を克服し、肺水腫も治ってしまいました。「もしや」と淡い期待をもったのですが、8月17日、激痛に苦しみながら逝きました。ただ、 モルヒネで朦朧となりながらも最期まで意識を失わない母の気丈さに、絶句しました。最期は、きょうだい三人で看取りました。

 がんセンターの医療者さんたちには本当に良くしていただきましたが、なかには、患者の気持ちに寄り添おうとしない人もいて、閉口しました。
 仏教看護を提唱された藤腹明子先生が、「今の医療者の問題は、あたかも『自分は死なない』というような前提での医療をしていることです。だから、死にゆ く患者やその家族のかたわらに立つことができないのです」という主旨のことをおっしゃっていますが、そのとおりだと思いました。

 私に、「医療用麻酔(モルヒネなどのオピオイド)で痛みはコントロールできます」と誇らしげに仰った医師もいましたが、死にゆく痛みを緩和することは、 できません。精神科の医師もかなり真剣に母に向き合ってくれたと思いますが、自分の体が内面から壊れ、そして、この世から自分が消えてなくなるという心の 痛みまでは考慮してくださらなかったと思います。彼らのコントロールの対象はあくまでも肉体のがん性疼痛でしかないようでした。
 それに、亡くなる6時間前はもうオピオイドは効かなくなり、激痛と呼吸困難でひどく苦しみながら死んでいきました。
 緩和ケアには限界があります。

母と「死」について語りたかった

 縁あって今年の4月に出家得度をして、曹洞宗の僧籍を有することになりました。母のことと、関係はありません。
 もう何年も、本職の僧侶に僧侶と間違われているような状況でしたので、正直なところ、出家をしても人間的にはあまり変わっていません。友人の僧侶たちと 始めた被災地の仮設住宅訪問では、出家前から読経を頼まれたりしていました。ある海外寺院の坊守のようなことを10年以上続けているので、なんとなく抹香 臭いのでしょう。

 それに、ずっと宗教や葬儀の雑誌や新聞で仕事をしてきました。
 だから、「死」について想うところはたくさんあります。

「死」を前提にしなければ話せないことはたくさんあります。もちろん、6月12日に入院してから、母は「死のリスクはある」と常に言われていましたが、「回復不可能」という宣言とでは、両者には決定的な違いがあります。
 母の容態が急変してから、医師から「いまさら告知はしないほうがいい」といわれ、結局、「死」を告げられませんでした。親族の中に、前向きなことばかり 言って母を励ます人がいたので、余計に「死」や「死んでからのこと」について話しづらくなってしまいました。また、せん妄といって、がんの末期患者に特有 の意識障害や幻覚、幻聴が始まってしまったので、なかなか落ち着いて話せませんでした。
 何も死後の世界について語り合いたいというのではありません。聴かれたら対応しますが、それよりも、「葬儀に誰を呼びたいか」「墓(遺骨)はどうするのか」「誰かに言い残したこと、贈りたいものはあるか」といったことです。
 なんとか、質問をオブラートに包んで、上記についての回答を聞き出したものの、たぶんまだ言い足りなかったのだろうと思います。せん妄のためか、説明の途中で母がかんしゃくを起こして、会話が成立しなくなるときもありました。
 ですから、せん妄が始まる前にもっと話しておきたかった、と悔やんでいます。エンディング・ノートは、数年前に見せたら「縁起でもない!」といわれてそれきりでした。
 ただ、生前の母に対しての心無い言葉と振舞を詫びることだけはできました。

小学生のとき、担任の教師や同級生に大怪我をさせたり、中学生のときに新潟まで家出して補導されたりと、心配ばかりさせてきました。謝りきれません。
「そんなことをさせる親が悪い。泣かないでおくれ」
 病床から搾り出した、母の優しい言葉が、今も忘れられません。
 最期の日々、できる限りそばにいることはできたと思います。
 しかし、充分な看取りであったのかどうか…。
 自問自答ばかりしています。
 自分の、そして家族の「死」について充分に話すことは、その本人の「死に様」にも直結することであると、改めて考えさせられました。
曹洞宗蔵守院
太田 宏人(おおたひろひと/こうじん)

昭和45年 東京都生まれ。
國學院大學文学部神道学科卒。
フリーライターを経て、1994年、南米ペルーへ。
現地の日系人向け新聞『ペルー新報』編集長を経て2000年に帰国。
現在、雑誌『SOGI』、週刊紙『仏教タイムス』、雑誌『皇室』で連載中。
2012年4月、出家得度。曹洞宗蔵守院(東京都あきる野市)所属。
傾聴に取り組む宗教者の会(KTSK)所属。現住所:東京都大田区蒲田

著書『知られざる日本人』(オークラ出版)、『逝く人・送る人 葬送を考える』(三一書房)、『110年のアルバム―日本人ペルー移住110周年記念誌』(現代史料出版)など.
2013年初旬に、雑誌『怖い噂』で連載中の「死に触れる人々」が単行本として刊行される予定。

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